ビジネス・エスノグラフィとは、民族誌学的アプローチをビジネスやマーケティング活動に生かした調査手法のこと。主にユーザー調査において、定量アンケートなどの手法で顕在化したニーズや情報を探る調査とは異なり、デプスインタビュー、ユーザビリティテスト、観察調査などの手法を使って、ユーザーの潜在的なニーズを探る調査のことを指す。
「エスノグラフィ」は、文化人類学や社会人類学における研究・調査手法であり、特定のコミュニティにフィールドワークとして参加し、そのコミュニティ内の人々の行動様式を観察・記述していくことで、価値観やコミュニティ構造をあぶり出していくものである。
こうした学術的アプローチを、ビジネスやマーケティングなどの課題解決に応用したところ、様々なイノベーションや成功事例が生まれたことから、近年はビジネスメソッドとして注目を浴びるようになっている。
ヘステンス:ベッドのスペックや価格よりも、睡眠体験を重視した売り場作りで成功
スウェーデンの高級寝具メーカーHästens(ヘステンス)は、150年以上の歴史を持つハンドメイドのベッドが特徴の寝具メーカー。同社は販売店での売り上げが落ち込んでいる課題に直面し、下記のような問題点を抽出した。
■照明が明るすぎる
ベッドは最もプライベートな空間であるはずなのに、見ず知らずの人が周りにいる
実際に寝た感触がどのようなものか体験しづらい空間(靴を脱ぐことすらしない時もある)
■販売担当者が売り込みにくる
これで本当に、1日の休息をとりリラックスするためのベッド選びができるのか――?
こうした販売スペースのあり方を見直すべく、「自分にあったリラックスできるベッド選び」を実現するためのプロジェクトチームを立ち上げた。
プロジェクトチームのメンバーがは、エスノグラフィの手法で販売店の課題をあぶり出すことにした。すなわち、直営店舗で実際に一晩を過ごしてみたり、販売担当者や消費者へのインサイトインタビューを実施するほか、ティファニーやフェラーリなどのラグジュアリーブランドのショールームの居心地も実際に足を運んで研究し、何が販売スペースに欠けているのかを観察。
その結果、以下の結論を導き出した。。
そもそも、ベッドを買う時に、実際の睡眠のイメージを想起させるための要素、特にヘステンスのコアバリューである「Best Sleep」を訴求するために必要なものが欠けている。
展示スペース内において、来店者がリラックスするための平穏で静かな時間と空間を提供し、実際に使った際のリアルな使い心地を体感できるものにするべきである。
この考えに基づき新たな商品展示スペースの企画が進められた。
■プライバシーを守る販売空間づくり
来店者にスリッパと枕を提供し、ベッドで横たわるなど好きなように試せるようにした。また試用に際し、カーテンを閉められるようにプライバシーカーテンを取り付け、より個人的空間に近い環境でリラックスして試せる空間にした。
■実際にベッドに寝た時の睡眠が「体験」できるサービス提供
防音装置のある部屋で1時間ヘステンスのベッドで眠れる「睡眠体験予約サービス」を提供した。部屋ではお茶も出されるなどおもてなしされる空間となっている。希望者はWebから店舗名と日時、連絡先をフォームから送信することで予約可能。
■販売手法の変革
販売担当者は、ベッドの価格や機能性だけについて説明するのではなく、睡眠時の体勢や横たわった時の身体の感覚についても顧客と対話をするように対応内容を変更。支払処理等は、タブレット端末のアプリを使ってベッドサイドで行えるようにした。
■ベッドを自分の好みにカスタマイズできるオプション
自分の好みに応じてベッドの長さ、デザイン、色などがカスタマイズ可能。
■体験者の声をシェアするオーナーコミュニティ
販売スペースにおいて、既存のヘステンスオーナーのベッドの睡眠体験に関する写真や手紙、ビデオを流すことによって、クチコミ効果を増大させる。
これらの取り組みはいずれも「人間中心」「顧客中心」の販売スタイルである。
見込み顧客が寝具売り場にどのような情報を求めて来店するのか、どのような体験が提供できれば要望を満たせるのか、を突き詰めた結果、従来の寝具売り場では見られなかった販売スタイルが出来上がったのだ。
この改革の結果、来店客は2倍の時間を店舗で過ごすようになり、ストックホルム店の売上は77%向上。
それまでの2倍のペースで新規店舗を開店することができた。
ヘステンスにとって、販売スペースが単なる「製品としてのベッドを売る場所」だった時は、ベッドの展示が主体であり、商品としてのベッドの仕様と価格に関する情報を提供するだけの場だったはず。
それが、人間観察と現場観察により、寝具メーカーのゴールが「顧客に対し特別な睡眠体験を提供する」というものに変わった時、販売スペースは「ヘステンスが実現する睡眠を体験してもらう場」に変わった。
その結果、販売スペースで提供するサービスや情報は、“睡眠体験を充実させるもの”を主軸に企画が練られるという変革が起こったのある。