トゥクトゥクはその名に反して、猛スピードで夜のバンコクの街を走り抜けた。
オノマトペがすっかり馴染んでいる僕の身体は、トゥクトゥクという音を聞くとゆっくりとしたトラクターのようなどこか牧歌的な乗り物を想像してしまうのだが、130ccとは思えないほどのエンジン音がうなりをあげて、雑然と荷室に置かれた三人を振り払わんが如く突っ走るのだ。その姿はさながら大田市場から仕入れた野菜を運ぶむき出しの軽自動車のようだ。外観だって優しくない。食べたら体に悪いことが一撃でわかるかき氷のシロップのような色のネオン管が派手なピンクやブルー、イエローが眩しく光っている。
僕らはトゥクトゥクに乗せられて、ムエタイのスタジアムに向かっていた。運転は荒いし、言葉も通じてるのか通じてないのかわからない。どこに連れていかれるのか不安が残るまま、30分も走るとスタジアムに着いた。タイは、現地に住む人に聞くと、とても安全なのだそうだ。最初に200バーツと決めたら200バーツでいけてしまうし、危険な街に見えるが犯罪といっても軽犯罪がほとんど。とはいえ体感する恐ろしさからは想像もできない安全な世界にまだギャップ萌えできる余裕はない。
スタジアムの前は人だかりになっていた。ラジャダムナンというスタジアムだった。人は多いが、明らかにスタジアムを背にしているから観光客でないことはわかる。チケットはもちろん、何かいろんなものを売ろうと待ち構えているようだ。僕らは奥にある監獄のような鉄格子の先に見える顔に突進し、あらかじめ予約してもらっていたチケットを購入した。入口に見えない入口を入ると、電気は点いているのだが薄暗く、もちろんLEDではない白熱球が一部分を照らしていた。スタジアムからは民族音楽のような怪しい音楽がうっすら聞こえてくる。そこはコンクリートむき出しの廊下で、感情のない目をしたタイの人たちがタバコを燻らさせていた。もう牢屋にしか見えない。ビニールでできた入口の扉を開けようとすると、あっちだと指をさされた。コンクリートの壁にはFOREIGNERという文字と矢印が書いてあった。矢印は一方を示すばかりで、どこまで行けばいいかは教えてくれない。不安な気持ちのまま廊下を歩いていると、タバコを吸っているヨレヨレのタンクトップの青年が指でここだよと教えてくれた。なぜか僕はコップンカーと場違いな大きな声で言った。彼はびっくりしたようだが微笑みを返してくれた。
席は二階だった。僕らの場所だけガラガラで、大きなコンクリートの階段に座ろうが立とうが自由だ。薄暗くて、蚊が多い。円形のスタジアムの中央にリングがあり、そこだけ光が強く照らされていた。奥に楽器を演奏する人が三人座っていた。入る時に聞こえてきた民族音楽の正体は彼らだった。すでに試合は始まっていた。男が二人、リングの上で蹴り合っている。僕らのエリアとは反対側の二階席は大いに盛り上がっていた。スタジアムに入る前に僕らを待ち構えていた何かを売ろうとしていた人のように、明らかにリングに背を向けている人が何人かいる。僕にとって昭和時代の娯楽だった野球観戦では、同じように試合に背を向けた人がいた。彼らは応援を指揮する人で、最初僕はその人と同じ役割なのかと思った。だが、それはすぐに間違いだとわかった。彼らは応援を指揮している人というよりも築地でセリを仕切る人のようだった。具体的にはわからないが、賭けていることだけはわかった。試合が始まるとともに彼らの熱気は増していき、最終ラウンドに絶叫に変わる。そして、試合が終わって選手が喜びを爆発させて会場に挨拶している時には観客は拍手もしなければ声もかけない。興味を失っていることが明らかだった。
僕は喉が渇いたので水を買いに廊下へ出た。廊下を歩いている時に老婆が飲み物を売っていたのを見ていたのだ。僕は水を8本くれと英語で言った。英語がわからないのか、指で8を彼女は数え始めた。僕も左手をパーに開き、右手で3を示した。彼女は大きく頷き、電卓を取り出した。一本40バーツと書いてある。彼女はエイトねと言いながら、電卓で40×40と打つと、ああ違うというジェスチャーとともに電卓の数字を消した。そして、また40×40と打つ。ああ違うと、そこから二回同じことを繰り返し、彼女は何を思ったのか、1600バーツだと僕に言ってきた。計算が間違っていたと思って何度かやってみたけど、間違ってなかったんだと気づいたような感じで言ってきたのだ。僕は違うよと笑った。