触り三百陶徒記の次のテーマは備前だということはずいぶん前から決まっていた。触り三百はやきもの素人の三枝さんと僕がやきものの産地を訪れて、土地の人に教えてもらって、僕らの目が肥えて行ったり、逆に知らないから悪物を掴んでしまう様子なんかを勘違い満載でお届けする旅エッセイのようなものだ。すでに唐津や伊万里、萩、多治見なんかに出かけている。
行き先を決めるのは三枝さんである。僕の役目は主に運転手で、決められた行き先にお届けする任務を仰せつかっている。20年近く前に旅行していた時はみんな車が嫌いだったのに僕だけなぜか克服できたのだ。電車の旅も好きだけど、車があるのはやはり便利だと感じる事が多い。アクセスの悪い場所へ行くことや偶然見つけた店なんかに出会えたりする。
三枝さんは行くまでの予習に余念がない。フランス旅行に行った澁澤龍彦がフランスに行く前にその地を土地の人のように知っていたように、とまではいかないのかもしれないが、事前準備をまったくしない僕のような人間からすると尊敬してしまうほどに情報をインプットしている。その三枝さんがいつからか備前備前というようになった。僕は仕事に追われていて、やきもののことなど耳に入って来ず、聞き流していた。備前がいいんだとかハマってるんだとか東京のなんとか市にでかけて備前を買ったんだよとかそんなことを言っていたような気がする。だが僕は、とにかく仕事のことでいっぱいになっていて、それを聞いてググってみようとすら思うことはなかった。それが去年のいつくらいのことなのかはわからないが、ずいぶん前のように思う。
三枝さんのささやきは僕の頭の片隅に張り付いていて、次回の触り三百を早くしてくれと担当スタッフに言われたときに、次は備前だよとだけ言っておいた。一瞬先ならぬ一週先は闇のいまの僕にとって、一泊の旅行を決めるのは至難の技だ。行けない理由など山ほどある。どのカードを切ろうか頭の中にカードを忍ばせていたのだが、三枝さんと仕事の打ち合わせをしているときに備前に行こうと決めた。予定は明日。三枝さんは嬉しいよと言ってくれた。僕は三枝さんが喜ぶ顔に弱い。あれをみると嬉しくなってしまうのだ。ともあれ、明日のチケットも持たぬまま、始発の新幹線に乗ることだけを決めた。