「一筆さんは、ふだんはひょうきんなのに、文章はイケメンねぇ。」
と奥さんは僕の文章を読むと決まってそう言う。
「一筆さんて、本当はマジメな人だったんですね」
とワッキーに言われるし、
「内容は面白いんですが、一筆さんの人柄というか面白さが出ないのは勿体無いですねぇ。僕は好きなんですけどね」
と響ちゃんに言われる。
これらは今日の一筆を読んでの感想である。奥さんもワッキーも響ちゃんも僕をよく知る人たちであり、とても優しい人だ。きっと傷つけないように助言してくれているのだ。なんか、違うんじゃないか?ということを。
共通しているのは「僕らしくない」ということだ。みんなは僕をひょうきんな奴だと思っていて、今日の一筆というからには、どんなひょうきんが待っているのか期待してるのに、開けてみたらクソマジメでがっかりということなのだろう。
これには困った。僕は僕がどんななのかがわからない。ひょうきんだと言われるが、奥さんなんかは僕の容姿がひょうきんだと思っているし、ふだん話す言葉についても何がひょうきんなのかなんて考えたこともない。自分らしくないと言われるのは、なんだか切ないし、面白くないと言われるのは嬉しくない。なんとかしたい。まさか自分探しの旅がこんなところで待っているとは。
問題は、文体だ!
僕は直感的に思った。文体がひょうきんじゃないのではないか。本棚にあった『文体の科学』山本貴光著(新潮社)の帯には、「文体は人なり」と書かれている。文章における人となりを文体と呼ぶならば、文体が僕と違うんじゃないかと思った。
齋藤孝先生は、自著『書く全技術』(KADOKAWA)の中でこう言っている。
他人がその文章を読んだときにおもしろいと感じるかどうか。そこに一番かかわってくるのは、もちろん文章の内容ですが、しかし、実は「文体」もおおいにかかわっていることを知っておきましょう。
やはり、文体が大きく作用しているとしか思えない。僕の文章は内容は悪くないと言われているのだ。読んだ人がおもしろいと感じるには文体がかかわっている。では、文体とはいったいなんなのか?
先ほどの斎藤先生の本によると、役者に例えるならば、役者の演技力にあたるものが文章では構成力であり、いわば基礎力のようなもの。文体は、役者におけるスタイルや存在感のようなものだという。存在感のある役者でパッと思いついたのは三船敏郎だ。黒澤監督の映画では「七人の侍」でも「椿三十郎」でもスクリーンに出てくるだけで、生命力が溢れんばかりの存在感が伝わってくる。黒澤明の名演出もあるのだろうが、世界中の人たちがその存在感を称賛する。
これでわかった。
僕の文章には生命力が足りないのだ。
僕らしさがないのではなく、僕という人間が存在していなかった、もしくは足りないのではないだろうか。
わかったはいいものの、斎藤先生は強調して言っている。
文体を確立するのは容易ではありません。
と。さあ困った。文体は身体性にもかかわっていて、そう簡単に身につくものではないというのだ。鍛えるには読み手の能力を高めるほかないそうだ。生命力に溢れた文章をカラダに刻み込んでいくしかない。お勧めされているのは『紫の履歴書』(美輪明宏著/水書坊)。そして太宰治。読んだことがあるものも文体に目を向けて、もう一度読んでいよう。確かに太宰の文章には生命力がある。
水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
「走れメロス」(太宰治/青空文庫)