「ビッグバンを起こしたいんだ」
と今日初めてお会いした建築家の方は言った。
「突き詰めると、僕がやりたいのは建築ではなく、庭じゃないかと思う」とも言っていた。
紹介してくれた人曰く、世界的な賞を数多く獲得している人らしい。
そもそも僕は建築のことをよく知らないのだけど、そんなことよりも、唐突にすごいことを言う人だなと思った。まわりにいた5、6人もぽかんとした顔をしていた。そりゃあそうだろう。彼がいう「ビッグバンを起こす」ことが何を意味しているのかわからない。だけど僕は「見たことありますよ」と話に乗ってしまった。酒に酔っていたせいもあると思う。
もう随分前だけど、PlanBという中野にある小さな劇場で、田中泯の舞踊を見たときのことだ。当時、田中泯の舞踊にハマっていて、いろいろなところで見ていた。その日、泯さんは裸に近い状態でいつものように舞っていた。もちろん道具なんかは持たない。時おり静止したかと思えば、一気に動き出す。途端に、泯さんはぐるぐる回りだした。それはもう鬼気迫る勢いで、僕らは室内にいながら台風の中にいるような異様さを感じた。そのときだった。ドカン!と音がした。実際には鳴っていなかったのかもしれないが、あれはビッグバンというほかない現象が起こった。一緒に見ていた三枝さんと二人で感動のあまり動けず鳥肌どころの騒ぎではなかった。いまでもあの時の感動をよく話す。
田中泯は「オドリは個人に所属できません。私は名付けようもないダンスそのものでありたいのです。」と言っている。身体気象研究所を立ち上げたのは1978年のこと。最初に泯さんのオドリを見たのは編集工学研究所にいた時のことで、どこだか忘れたけど、その場の空気が一気に変わってしまい驚いたのを覚えている。
ビッグバンを起こしたいという言葉を聞いて、久しぶりにそんなことを思い出した。そして、建築家の方を面白い人だなと思った。
それからその人は、水なんだ。水が重要なんだと言っていた。方丈記の水の描写や無常観が感覚的に親近感を抱くのだという。「水が大好きというか、水の様相の変化を体感すると、身体と一体化するような。そこからアイデアを得ることが多いです。海外の人たちは、その無常観の詩情性を評価してくれるような気がする」とビッグバンの次は水のことをからりとした顔で話し出した。
渋谷のKOEのラウンジで話していたのだけど、23時で店は終了だと伝えられて、僕らは外に出た。昼間は晴れていたのに、外は雨が降っていた。なんとなく、三々五々お開きとなった。
家に帰ってからなんだか水のことが気になって、本棚を漁ってみたらサントリー美術館でやっていた『水 — 神秘のかたち』という展覧会の図録が出てきた。こんな章立てになっている。
第一章 水の力
第二章 水の神仏
第三章 水に祈りて
第四章 水の理想郷
第五章 水と吉祥
第六章 水の聖地
生命の源である水は、数々の恵みをもたらす偉大な力を持つ存在として、早くから祈りの対象となってきた。なので、銅鐸に流水紋が刻まれたり、海を漂い流れてきた霊木で仏像をつくったり、水の化身ともいえる弁財天が誕生したりした。
薫玉堂のお香のネーミングにもなっている音羽の滝は、京都の清水寺の信仰の対象になっているように、水の、あらゆるものを洗い流し、浄め、また潤いを与える力に、人々が霊威を感じてきたのだという。
水の清浄さが本尊の霊力を高める意味合いが見て取れる一方で、水辺が境界であると同時に、異界につながる道として機能する点も見逃せないだろう。(例:盆送り)
水はたしかに凄そうだ。日本には龍脈があるなんて話もあるし、今度は水についてその建築家の方と話してみたい。
ところで、話はズキュンとブランディングになるのだが、『ブランディング22の法則』アル・ライズ/ローラ・ライズ著(東急エージェンシー)の帯にはこう書かれている。
「ただの水をエビアンに変える」
「あなたを第二のビル・ゲイツにする」
-これがブランディングの力である。
仮に不変のコモディティ・カテゴリーがあるとするならば、それはH2O、別名水である。アメリカではほとんどすべての人が水道蛇口から上等できれいな水を確保できるので、食品店で水を買う必要がない。それにもかかわらず、実際には大勢の人が水を買っている事実をどう説明したらいいのだろうか。
ここで、「ただの水」という意味は、コモディティ・カテゴリーを意味している。
エビアンはとても強力なブランドで、私たちは先日1.5リットル買って1ドル69セント支払った。日によっては、エビアンはリットル当たりバドワイザーより20%、ボーデンの牛乳より40%、コカコーラより80%高い値段で販売されていることがあるのだ。これがブランディングの力である。
昔、タレントのきたろうが「ついにペットボトルのお茶を買ってしまったよ」と斉木しげると話していたが、今では当たり前になったペットボトルのお茶だって、わざわざ買うようなものではなかった。ましてや水なんて。日本でもアメリカと同様の状況が起きている。
コモディティ化することと、差別化できなくなることとは違う。水が当たり前にどこにでもあるからといって、すべてが同じではないのだ。エビアンはフランスのアルプスの奥底から汲まれたものであり、音羽の滝は清水寺の信仰の対象である。家の水道蛇口から出てくる水だって、どこの水系からひかれてるかで違うわけだし、差別化はできる。コモディティ化した市場にあるブランドも、もう一度考えてみるといいのではないだろうか?