マーケティングの言葉というのは、曖昧なものがとても多い。そもそもマーケティングという言葉だってはっきりしない。そんなマーケティングに関する言葉の中で、ミッション・ビジョン・バリューというものがある。僕は企業理念をつくることも多く、いろいろな会社のミッション・ビジョン・バリューにも数多く接してきたが、実は腹落ちしていないというか、しっくりきていなかった。特にミッション。わからないことはないのだけど、その価値がしっくりこないのだ。
ドラッカーは組織のリーダーはミッションを考え抜き、定義することが自らの組織をつくる上で最初にやるべきことだと言っている。ミッションがないと、組織で働く全員がどんな貢献をするのかわからず、単なる意図に終わってしまうという。逆に、ミッションを正確に理解できれば、自発的に貢献すべきものを見つけて仕事に取り組めるというのだ。
ミッションはとてつもなく重要だということがわかる。ミッションとは、使命である。企業が社会に対して持つべき使命。大義と言ってもいいのかもしれないが、そもそもミッションをなぜこんなに大切にするのだろうか。ミッションを掲げてはいるが、単なる意図に終わっている企業も目にするのは大切さの理由がしっくりこないということもあるのではないだろうか。
今日ようやくその理由がわかったのだが、まず、ミッションという言葉はキリスト教から来ている言葉だということだ。キリスト教は一神教であり、神と民との契約によって結ばれている。一方で、日本は八百万の神がいて、神と人との関係がどちらかといえばゆるい。畏怖の精神があり、神を人が選ぶなんておこがましいと考えてしまうのが日本人だ。この神と人との関係が、マーケティングにおけるミッションにも色濃く反映されているのだろう。
ちなみに、就職にもこの図式が当てはまると思う。アメリカはディスクリプションがあって仕事内容が極めて明確になってから企業と人が契約で結ばれる。一方、日本は総合職という言葉が象徴するようにざっくりと企業と人が結ばれる。契約に対する意識が日本人は低いように感じるのは僕だけだろうか。
いま一緒に仕事をさせていただいている会社の社長は、私が使命に生きる女性を初めてみたのはシスターだったと語っていた。女性の社長だが、彼女はミッション系の中学に通っていて、その時にキリスト教倫理を学んだのだという。なんのために生まれたのか?を考え、人や使命に尽くすことを大切にしている。
この話を聞いて、僕がミッションという言葉にしっくりこなかった理由がキリスト教倫理にあるのではないかと思った。使命に尽くすという言葉は理解できるけど、頭でわかるだけで体ではわかっていない。なんのために生きるのか、長いあいだ考えながらきたけど、神との契約をベースに考えたことなどなかった。
ミッションとは、使命であり、存在意義である。これはキリスト教に限らず、宗教的啓蒙が大きく影響するのではないかと思う。ニーチェは神は死んだと言ったが、無宗教の人だってもちろんいるだろう。会社の使命とはいったいなんなのか、単なる意図にならないものを自ら生み出すのは至難の技のように思えてしまう。