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京都と僕

CATEGORY : 今日の一筆

UPDATE : 2019.04.12

文責 : 一筆太郎


 
今日は大阪の難波で打ち合わせがあるので、朝イチの飛行機で博多から大阪へ向かった。8時には伊丹空港に着いて、すぐに京都行きのバスに乗る。打ち合わせは15時からだったけど、朝イチの飛行機に乗ったのは京都に寄りたかったからだ。京都には祖父のお墓がある。僕は大阪に行くときは必ず墓参りができないか確認し、時間があれば墓参りに行くようにしている。
 
お墓は祇園の近くにあって、タクシーで菊乃井に行ってくださいというと着くような場所にある。花見小路通はいつも多くの観光客で賑わっていて、着物を来たカップルが京壁の前で写真を撮ったり、外国人の団体が店になだれ込んで行く様子やバックパッカーが出格子を興味深く観察したりしているのが馴染みの風景となっている。もう京都に何回行ったのかわからないが、最近は墓参りだけが目的になっていて、観光するという頭がなくなってしまったから、たくさんの観光客をみると自分も何か観光しないともったいないのではないかと思ってしまう。だけど、ふと、観光地で観光する頭がなくなるということは、まるで地元の人になったみたいじゃないかと思った。
 
僕は親が転勤族だったこともあり、故郷というものがない。出身はどちらですか?と聞かれることが多くなったけど、その度にいや、いろんなところを転々としておりまして・・・、などとしどろもどろになってしまう。そういう質問をしてくれるのは明確な出身地がある人が多く、はっきりした場所を答えないと答えにならないのではないかといらぬ心配をしてしまい、その結果、期待に応えるような答えを出せず申し訳ありませんと恐縮してしまうのだ。
 
僕にとっての京都は一筆の名前の棲家のような場所で、僕自身は京都で生まれたわけでも生活したこともない。一筆のサードパーティーのような僕が、京都が出自というのもなんだか居心地が悪い。会社で言えばホールディングス会社の本社があるような場所だし、自分に関係があるようなないような街が僕にとっての京都なのである。そんな僕が観光地である京都を観光せずにいることは考えてみれば不思議な話だ。
 
そういえばタイに出張したとき、現地で日本食店を何店舗も経営する方に言われた「友だちがいる場所は初めての場所であろうと、まったく違う場所になる」と言われたのを思い出した。まず、友だちがいる街は安心できる。そして回数が増えると、そこが自分の街じゃないかと思えてくる。しかも割とすぐに。世界の各都市にもし友だちがいたらどれだけ楽しいだろうとタイで話してくれた方は目を輝かせて言っていた。博多に友だちができて毎月のように行くようになった僕は、その言葉をまっすぐ受け取ることができる。昨日は「何回こっち来てるんですか?一筆さんは何度も春吉きてますよ。サバの店も焼肉の店も、ほら、何度も来てるじゃないですか」と言われたけど、僕にとって博多は、というか福岡は他人の街じゃなくなった。もはや僕に出身地がないことなんて、どうでもいいことに思えてくる。そもそもどうでもいいことだと思っていたのだけど、恐縮する必要すらないだろう。
 
京都には祖父のお墓がある。僕は祖父を起業家・経営者として尊敬している。自分が会社を経営してもやっていけると思えるのはそんな血が流れているからだと安心できる部分もあるのかもしれない。それは、ある種の神さまみたいなもので、例えば初詣でどこかの神社に参るとき、お詣りするのは祀られている何かしらの神さまであって、その流れに自分が乗っているから安心して祈ったりできるんじゃないだろうか。ちょっと飛躍しているのかもしれないけど、僕にとって一番近い神さまは祖父なのかもしれない。
 
京都は、身近な神さまがいる場所。そうしよう。

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