Branding Knowledgebase SINCE.

11/3
母は僕を一筆ブランドに仕立てあげた

CATEGORY : 今日の一筆

UPDATE : 2018.11.03

文責 : 一筆太郎

京都の都会生まれの父と福島の山奥生まれの母から
僕は生まれた。
 

父の実家は一筆絞りという絞り染めの会社を京都でやっていて
二条城の前の御池通に家と工場が3軒あった。
当時は裕福だったようだ。
 
 
母の実家は電車も一日数本しか走らない福島県の山奥に今もある。
母の父親は戦争後まもなく、交通事故で亡くなったらしい。
それから祖母が、母をはじめ、3人の子どもを一人で育てた。
母から聞いたことはないが、暮らしは貧しかったんだろうと思う。
 

二人は職場で出会い、結婚した。
父が30歳で母が24歳のことだ。
 
 
母は、父の実家が衝撃だったようだ。
京都という日本有数のカルチャータウンであるだけでなく
なによりもその裕福さに驚いたのだろう。
 
 
本当に京都のおばあちゃんにはよくしてもらったと
今でもしょっちゅう言っている。
  

母は結婚して一筆性となり、僕を生んだ。
 
いうまでもないことだが
僕は生まれながらに一筆である。
 
母はそんな生まれながらに一筆の僕を
執拗に一筆化しようとした。
 
きっと京都の一筆の家に何かブランドを感じていたのだと思う。

僕を一筆ブランドにふさわしい男に育てようとしたのだ。
 
 

まず、必要なのは習字だった。
母にとって一筆であるからには字が綺麗でなくてはならなかったのだろう。
書道を早くから習わされた。
 
それ以外にも小学校に上がるか上がらないかのうちから
習い事はずいぶんさせられた。
  

あとはお父さんのようになれ、の一点張りだった。
 
父は早稲田大学に入り上京した。
大学卒業後には当時最強のブランドだった
セゾングループに入る。
西武百貨店で食品を担当した。
勤勉で実直。マジメ一筋に働いているように息子からも見えた。
 
 
僕が入るべき大学は、もちろん早稲田である。
そしていい会社に入って勤勉に働けと言われた。
これは中学生くらいから決まっていた。
そのころの僕は成績優秀だったから
母が描く道は現実になりそうに見えたのかもしれない。
 
だが、高校受験で思惑が外れた。
早稲田大学の付属高校に落ちたのだ。
そこから転がる石のように
母が想い描く世界から僕は遠ざかっていき、
しまいには大学も辞めてアメリカに行ってしまう。
 
 
母は彼女が想い描く、
僕の一筆ブランド構築に失敗したのだ。

母はあなたが理解できないと何度も言った。
 
 
40歳を超えた僕は
父とはまったく違う道を歩んでいる。
 
だが、今にして思えば
僕のパーソナルブランドは
一筆家の流れに乗っている。
 
 
父の実家である一筆絞りは染め物屋だった。
つまりは着物などの制作会社であり
クリエイティブな要素もあるクライアントワークなのだ。
 
一筆絞りの売りは、顧客の要望を細かく聞いて実現すること。
さらに顧客の期待を上回る何かを提供していたことが評判を呼んだのだという。
 
父は全国の売り上げの落ちてきた西武百貨店に出向き
立て直しをする仕事をしていた。
 
僕はブランディング会社をやっている。
それは制作会社でもあり、クライアントの事業をよりよくするために
サポートする会社である。
 
まさに祖父と父の流れに乗った仕事だと言えるだろう。
 
 

もっと言えば、母の流れだって汲んでいる。
 
母の実家は宿屋をやっていた。
福島の山奥には病院も少なく、
病院で診てもらうために周辺に宿をつくって
患者やその家族をもてなしていたのだ。
 
母の異常なサービス精神はそこからきているように思う。

こちらはサービス業である。
僕の仕事もサービス業だ。
 
大きく捉えれば、
僕は父と母の流れを汲んだ
パーソナルブランドを構築しているのだ。
  
失敗したと思われた
母のブランド構築は成功していた。
   
成功の要因はなんだったのだろうか。
 
それは母が一筆らしくということを言い続けたこと。
そして僕が一筆という珍しい名字だったことで
いろいろな人から一筆をいじられてきたこと。
そうすることで僕は自然と一筆らしい道へ引き寄せられていったのではないだろうか。
 
 

一筆らしくあれと言われ、
一筆らしさとは何かを考え、
一筆と呼ばれ続ける。
 
 
この僕としてはまったくうれしくない
ループが僕を一筆ブランドに育て上げたのではないだろうか。

RELATED ARTICLE

ご相談ください お問い合わせ