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ブランドを無にして、再提出する写真家 吉川慎二郎

CATEGORY : 今日の一筆

UPDATE : 2018.11.06

文責 : 一筆太郎

この世に存在するものすべてがブランドだ。
 
 
そう言ったのはコトラーかアーカーか忘れてしまったが
他と違っていて独自性のある存在がブランドなのだとしたら
この世に存在するものすべてがブランドだ
と言っても差し支えないのだろう。
 
 
例えば、肉。牛肉の塊があるとする。
 
見た瞬間に「肉だな」と思う。
 
このとき想起した肉はスーパーで見るような
たまに焼肉屋さんで吊るされてるのを見るような
いわゆる塊の肉である。
 
 
肉には肉のブランドがある。
 
肉を見て、「あぁ肉だな」と思ったならば
それが肉のブランドである。
「ちょっと違うな」と思ったならば
私にとっての肉のブランドと異なるのだ。
肉のブランドが頭にあればこそ違いを感じることができる。
 
 
吉川慎二郎という友人のカメラマンがいる。
 
彼はカナダやアメリカで写真を学んだ。
広告を主戦場とし、映画の現場でも撮影したという。
コントラストが強く、一見すると日本人が撮ったとは思えない仕上がりだ。
 
 
彼の写真がおもしろいのは、
被写体となったものからブランドを奪い取ってしまうことだ。
例えば、肉を彼が撮影するとこうなる。
 

肉は肉である。だけど、何かが違う。
 
生の肉を撮っているのに
おもちゃの肉のようにも見えるし
逆に異様にリアルにも見える。
 
これを見て思ったのは
僕にとっての肉というブランドは
食品としての肉を意味するのだ。
 
スーパーに並んでいる肉は
見たときに食べても良さそうだなとどこかで思っている。
うまい/まずいではなく、
食べられる/食べられないを事前に判定しているのだ。
 
 
吉川写真の肉は
食べるのには危険な香りがする。
食品の肉には見えない。
だから違うと感じたのだ。
 
 
吉川さんに今右衛門の器を撮影してもらった。
 
撮影前はこちら。

 
それがこうなる。
 

 
どこか人間の乳房のようにも見える。
美しいタトゥーをおびた乳房のように。

さらに、こうなる。


 
もはや元の器の形もなくなり
今右衛門であるかもわからない。
だが、器のフチにある艶やかさは今右衛門に触れたときの
感触を呼び起こさせる。
 

吉川慎二郎の写真は
一度そのブランドを引っぺがして無にしてしまう。
それから新しいブランドとして生まれ変わらせるのだ。

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