2025年11月、ヤン・ルカンがMetaを辞めた。ディープラーニングの土台を作った一人で、チューリング賞も受けている。Metaでは12年間、チーフAIサイエンティストを務めていた人だ。
その4か月後、彼の新会社AMI Labsが10.3億ドルを調達したと発表された。日本円で1,600億円ほどになる。製品として売れるものはまだない。出資者にはNvidia、Samsung、Toyota Ventures、それにジェフ・ベゾスの投資会社が名を連ねている。
この会社が作らないと明言しているのが、ChatGPTやClaudeのような大規模言語モデル(LLM)だ。ルカンは以前から、LLMを大きくしていく今の主流路線を「行き止まり」と呼んできた。1,600億円は、その主張に集まった金額ということになる。
「世界モデル」という言い方
ルカンが代わりに作ろうとしているものは、世界モデルと呼ばれている。仰々しい名前だが、指しているものは日常的だ。
机の端にコップを置こうとして、途中で手を止めることがある。落ちるとわかるからだ。実際に落として確かめたわけではなく、頭の中で数秒先を再生して結果を見ている。ボールが跳ねる方向、混んだ通路ですれ違うときの相手の動き、レジ袋を持ち上げたときに底が抜けそうかどうか。人はこれを一日中やっている。
この頭の中のシミュレータが世界モデルにあたる。ルカンの主張は、今のLLMはこれを持っていない、そして持っていないものは文章をいくら読ませても手に入らない、というものだ。
4歳児とLLM
誤解されやすいのだが、彼は「LLMは役に立たない」とは言っていない。有用だが原理的に限界がある、という言い方をしている。強く主張しているのは、LLMを大きくしても人間並みの知能には届かない、という一点だ。
根拠としてよく持ち出すのが、4歳児との比較である。ルカン自身の見積もりはこうだ。
・最大級のLLMが学習するテキスト:約20兆バイト
・4歳の子どもが視神経から受け取った情報:約1,000兆バイト
(4年間で起きていた時間は約1万6千時間)
子どものほうが約50倍多い。
もっとも、視神経の帯域をそのまま「見たデータ量」として数えるのは、かなり大まかな見積もりではある。それでも、量でLLMが勝っているわけではない、という点は動かない。違うのは中身だ、と彼は続ける。
子どもが受け取っているのは目から入る映像で、途切れず続いていて、ノイズだらけで、しかも自分の行動と結びついている。手を伸ばした、だから倒れた。この「やってみた、こうなった」の繰り返しが物理の直感と因果の感覚を作る。テキストにはその構造がない、というのが彼の見立てだ。
関連して、モラベックのパラドックスという古い逆説もよく引かれる。人間に難しいこと(複雑な計算、難関試験)はAIには簡単で、人間に簡単なこと(物をつかむ、階段を降りる)はAIには極端に難しい。ルカンはこれを、AIが物理世界のモデルを持っていない証拠だと読む。
細部を予測しない
では具体的にどう作るのか。ルカンが推しているのはJEPAというアーキテクチャで、細かい仕組みまで追う必要はないが、発想の違いは一言で言える。
画像や動画を作るAIは、ピクセルを一つずつ復元しようとする。壁紙の模様も、揺れる葉の一枚一枚も、全部予測の対象になる。JEPAはそれをやめて、予測できない細部は捨て、要点だけを予測する。
誰かが部屋を出て、5秒後に戻ってくる場面を思い浮かべてほしい。あなたは「人が戻ってくる」ことは予測できるが、「そのとき髪がどう乱れているか」は予測できないし、予測する必要もない。JEPAが狙っているのはこの割り切りだ。形や動きや位置関係は扱い、再現しようのない細部には計算を使わない。
生成AIとは何が違うのか
ここで疑問が湧くと思う。SoraやVeoのような動画生成AIも、それらしい映像を作る。あれとは何が違うのか。
映画スタジオとフライトシミュレータの違いだと考えるとわかりやすい。
脚本を渡せばスタジオは見事な映像を仕上げてくれるが、こちらは客席にいる。途中で口を出すことはできないし、変えたければ撮り直しになる。シミュレータのほうは映像として見劣りする。ただ、操縦桿を引けば機体が傾き、墜落すれば墜落したと教えてくれる。だからパイロットの訓練に使える。どれだけ美しい映画でも、それはできない。
世界モデルかどうかの分かれ目は、絵がきれいかどうかではない。こちらの行動に反応するか、そして目を離しているあいだも状態が保たれているか、のほうだ。世界モデルの性能が「記憶が何分もつか」で語られるのは、まさにこの性質を測っているからだ。
意外なのは、V-JEPA 2のほうは絵をいっさい作らないことだ。映像をいったん数字の並びに変換して、その数字のまま次の状態を予測する。天気予報の計算が気圧や気温の数値だけで進んでいて、雲のイラストは人間向けに後から描き足されるのと同じで、ロボットしか見ないのなら絵にする必要がない。ルカンに言わせれば、絵を描く手間こそが無駄ということになる。
ただ、この線引きは曖昧だ。Genie 3は生成AIでもあり、世界モデルでもある。
JEPAの理屈は通っている。問題は実際に動くのかどうかで、そこは数字を見るしかない。
62時間
現時点でいちばんわかりやすい成果が、Metaが2025年6月に出したV-JEPA 2である。
事前学習に使ったのは100万時間を超える動画で、人手でのラベル付けはしていない。そのあとロボットの操作を覚えさせる段階で使ったデータが、62時間しかない。それで、見たことのない物体を見たことのない環境でつかんで移動させるタスクの成功率が65〜80%に届いた。
この62時間が要点だ。ロボットに何かを覚えさせるには普通、膨大な実機データがいる。動画で世界の仕組みを先に学ばせておけば実機データはごくわずかで足りる、というのがここで示されたことで、ルカン陣営の主張を支える最も具体的な材料になっている。
同じ発表に載っていた、もう一つの数字
ただ、Metaは同時に物理の理解度を測る新しいテストも公開している。そのうちIntPhys 2は、物理的にありえる映像とありえない映像を見分けさせるものだ。
人間の正答率は約95%。現在のAIモデルはコイン投げと同じ水準だった。
これは競合が作った意地悪なテストではない。世界モデルを推している側が自分で設計し、自分のモデルが落ちることまで公表した数字である。
この数字が両方の主張に使えるのが面白いところで、LLMに欠けている能力領域が実在することの証拠であると同時に、世界モデル側もその穴をまだ埋められていないことの証拠にもなっている。
LLMの中に世界の模型はあるのか
ルカンへの正面からの反論は、実はLLMの内部にもすでに世界の模型ができているのではないか、という一連の研究から出ている。
有名なのはオセロを使った実験だ。盤面のルールを一切教えず、「次に打てる手」だけを予測するようAIを訓練したところ、内部に盤面の状態を表す構造が自然に現れた。外から内部の数値を調べると、どのマスが自分の石か、相手の石か、空きかが99.5%の精度で読み取れた。誰も盤面という概念を教えていないのにである。
言語モデルの内部で「上・下・左・右」がきれいな幾何構造として表現されていることを示した研究もある。「上」と「下」は正反対を向くベクトルとして記録され、「左上」は「上」と「左」の足し算とほぼ完全に一致していた。
これで決着かというと、そうでもない。研究者のメラニー・ミッチェルは、LLMに抽象的な世界モデルが生まれているという主張はまだ強い証拠に支えられていない、と評価している。
根拠になっているのが、先のオセロの実験を後から詳しく調べ直した研究だ。AIが使っていたのは統一された盤面のモデルではなく、細かい場合分けの膨大な寄せ集めだった。この手が打たれ、かつこのマスが埋まっているなら、こう更新する。そういう断片的な規則が何千と積み上がって、結果として正しい答えが出ていただけかもしれない、というわけである。
ミッチェルの説明でいちばん腑に落ちたのは、その理由づけだった。人間は記憶にも使えるエネルギーにも限りがあるから、要点をまとめるしかない。AIは巨大な記憶容量を持つので、まとめる代わりに規則を全部覚え込めてしまう。だから学習範囲を少し外れると急に脆くなる。
内部に何か構造があることは間違いない。それを理解と呼んでいいのかは、まだ決着していない。
そもそも定義が揉めている
もう一つ知っておくと見通しがよくなるのが、LLM対世界モデルという構図そのものを否定する立場である。
エリック・シン(Eric Xing)らのチームは「Critique of World Model」という論文で、世界モデルの本質は動画を生成することではなく推論のためのシミュレータとして機能することだ、と主張している。
そして彼らはJEPAも批判の対象に入れる。要点だけを予測する方式には、AIが手を抜いてしまうという弱点がある。予測を楽にするために、どんな入力に対しても似たような無内容な答えを返すよう学習してしまう危険だ(専門用語では表現の崩壊という)。予測誤差が小さくなったからといって現実と合っている保証はない、というのが彼らの指摘である。
さらに、言葉を捨てるべきではないとも言う。知覚だけでは手に入らない抽象概念、たとえば「正義」や「利益率」や「来週」を表せるのは言語だけだからだ。これは「知覚こそ本命でテキストは構造が乏しい」というルカンの前提と正面からぶつかる。
学術の側から見ると、これは二者の対立ではなく、世界モデルとは何を指すのかという定義そのものが争われている状態である。
そのあいだにも実用化は進んでいる
理屈の決着とは無関係に、世界モデルは動くものになりつつある。Google DeepMindのGenieシリーズを並べるとわかりやすい。
2024年2月のGenie 1は、ラベルなしのネット動画から学習した110億パラメータのモデルで、テキストや一枚の絵、スケッチからでも操作できる環境を作れることを示した。同年12月のGenie 2で3Dに広がったが、世界の一貫性が保たれるのは長くて1分、公開された例の多くは10〜20秒だった。2025年8月のGenie 3は720p・毎秒24コマでリアルタイムに動き、視覚的な記憶は約1分、世界の一貫性は数分ほど保たれるようになった。1年半で、10秒程度しか持たなかった世界が、数分歩き回れるところまで来たことになる。
そして2026年2月、WaymoがこのGenie 3をベースにした「Waymo World Model」を発表した。カメラ映像だけでなくlidarのデータまで生成し、自動運転車が実際には遭遇していない場面をシミュレーションするために使う。シミュレーション基盤としての実用化は、AGI論争の決着を待っていない。
AMI Labs側は最初の応用先としてヘルスケア企業と組むと発表しているが、CEOのアレクサンドル・ルブランは、世界モデルが理論から商用応用に至るには数年かかりうる、と率直に述べている。
何を見ていればいいか
「LLMは行き止まりか」という問い自体は、10年スパンでは検証しようがない。追いかけるなら具体的な数字に落としたほうがいい。
一つはV-JEPA 2の62時間という数字が今後どう動くか。これが桁で下がり続けるなら、構造のある知覚データは桁違いに効率がいい、というルカンの主張の核心は支持されることになる。
もう一つはIntPhys 2のスコアだ。人間95%に対してAIはコイン投げ、という最も差が開いている指標なので、AI側のスコアが上がり始めたら、それは意味のある変化だ。逆にLLM側がこの差を埋めてしまうようなら、ルカンの前提のほうが崩れる。
仕事への影響という意味では、ルブラン本人が数年単位と言っているとおり、今年の判断に関わる話ではない。売上予測や顧客分析のように表と文章を扱う日常業務に、この論争が近い将来効いてくるとは考えにくい。効くのはロボティクス、シミュレーション、自動運転あたり、現実世界に働きかけてその結果が跳ね返ってくる領域である。
ルカンは過去にも、主流から外れた場所で先に正しかったことがある。ただ、AIは大きくすれば賢くなるという仮説のほうも、これまで何度も批判者の予想を裏切ってきた。今のところ、賭けるならどちらにも根拠がある、としか言えない。

